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2006'01.26.Thu
花の終わり2
花の終わり2

くらい
 大正七年水無月十日あまり二日、祖父天原優造が死去した。
 この年七十二を迎えた祖父君は長年患っていた胸の病についに倒れたのだった。


 祖父君は江戸幕府がまだ存在するころ、朝廷に仕える公家の一人であった。岩倉具視や木戸孝允らと明治政府を樹立させ、政界を引退した後は息子と共に鉄道を担っていた。天原伯爵の死に、とても多くの人々が集まった。その多くが新聞やラヂオで耳にする政界や財界の主達であった。彼らは口々に惜しい、と嘆いていたが、其れを見て姉が笑ったのを僕は知っている。


優一郎は泣いた。絅子は黒のヴェールを隔ててその表情を見せることは無かったが、彼女の口元に笑みはなかった。


 然し、彼は祖父君の死を悲しんだわけではなかったのだ。厳かな葬儀の列に、天原が嫡子の涙はとても相応しく感じられた。然しそれは死者を弔うためのものではない。彼は知ってしまったのだ。あの日。僕は。



 祖父君の寝室から、父の声が聞こえた。この古い洋館に滅多に寄り付かない父も、祖父君危篤の報を受けて戻ってきていた。彼は忙しい人で、また厳しい人であった。


 おそらく最期になるであろう父子の会話を盗み聞きするのは忍びなく、優一郎はすぐにこの場を立ち去ろうとしたが、祖父君の口からでた「優一郎」という単語に反応し、その機会を失ってしまう。


 微かに開いた分厚い扉の間から、ベッドの脇に佇む父の姿がちらりと見えた。なんの話をしているのだろう。彼は好奇心を抑えられなかった。今際の言葉に自分の名を話している。普段の彼であれば、やはり礼節に反する行為だと言い聞かせ、場から足を引いたであろうが、今日の優一郎は彼であって異なるものであった。精神の均衡を失いつつある少年に、そのような高尚な行動を求めるのは酷であろう。


 古い木の匂いがする祖父君の寝室は、彼にとって恐怖を思い浮かべるものの象徴であった。愛されていない、と幼心に覚えた記憶が、その古臭い匂いと重複する。


 静寂の支配する空間は、にごり無く祖父君と父の言葉を僕まで届ける。


「あのこに天原を継がせるのか。」
「あれがわたしの嫡男です」
「優一郎…忌まわしい子だ。あれでなく、絅子に婿をとらせろ。あれはよく出来た娘だ」
「父上」
「事実だ。遊び女の餓鬼なぞ、華族の血を穢す災厄だ…妾腹にでかい顔をさせおって」
「聞かれます。静かに。」


 わずか数秒間の会話であった。その直後、祖父君が咳き込んだかとおもうと、父の声が大きく聞こえた。医師殿、と呼ぶ声に彼ははっとしてこっそりその場を離れたのだった。


この日、彼を最期まで疎んだ人の心の臓はその役目を終えた。しかし彼は優一郎の心に大きな、暗く重いしこりを遺して逝った。僕は何者なのだろう。先ほどの会話は何だったのだ。不可解な疑念が優一郎の頭をグルグルと巡る。祖父君は、なんとおっしゃったか。


 彼はとても後悔した。なぜ、聞き耳を立ててしまったのかと。そこには微かながらの期待もあったのだ。彼は僕に厳しかった。しかしそれは自身が天原の嫡子であり、いずれは彼の跡を継ぐからだと考えてきた。祖父君は無口な方で、姉にたいしても父に対してもそのような接し方をしていた。しかしどうしたことか!祖父君は自身の後継に姉の名を挙げ、挙句彼を否定したのだ。妾腹。妾腹とはどういう意味だ。


 長く感じていた、優一郎自身に対する違和感の正体が、十六年目にしてようやく明らかになった。幼い頃、ふとした瞬間に感じた言い知れぬ恐怖。


 かけなしの理性は、ふらつく足を支え自室まで彼を連れ帰った。乱暴に厚いビィドロのカァテンを閉める。埃が舞う。陽の光の閉ざされた部屋は暗い。しかしやはりどこからか漏れてしまうのだろう。闇というには明るすぎた。優一郎は高いベッドへ潜り込み、その中で泣いた。涙は底を知らない。心は深海にあった



「ここにいるの、優一郎?」


 鍵を掛け忘れていた。姉は一度ノックをしてから、彼の領域へ足を踏み入れた。廊下からの光が彼女の足元を照らし、その細いシルエットを絨毯に写しだす。高貴な足だ。華族の、伯爵家の間違うことなき血脈が流れる女。優一郎はこのとき、初めて姉を心の底から憎いと思った。


「返事をなさって。おじい様が亡くなられたわ。みんなあなたを探しています。わたくしと参りましょう」


 鈴のような声だ。母(と呼んでいた人)のそれによく似ている。


 母は、母上はどうしておられるだろう。彼らの母は五年前の、丁度今日のような日に倒れられた。華族の姫らしい、とても穏やかな人であった。しかしその実、人を憎む心が強くおられた。彼女は知っていたのだろうか。息子が妾腹だということを。彼女は他人を平等に愛せるほど心の器用な方ではない。妾の子を育てることなど決してないであろうことは、彼にもはっきりとわかった。


 この家はどこか狂っている。いままで漠然と感じていた違和感が具体的な名を帯びた瞬間であった。


「姉さん、僕は、行けません。まだここにいたいんです。お祖父さまは、ただ魂が肉体から離れただけですから…、そう大げさにすることもないでしょう」


 姉の顔は見えない。彼は未だ布団を頭から被っていた。わけのわからぬ優一郎の発言に、は笑うことはなかった。


「素敵なことを謂うのですね。わたくしもそう思うのです。けれど、人は形式というものをとても大切にするものですから。あなたは行くべきかと。」
「出て行ってはくださいませんか。独りで考えたいことがあります。」
「優一郎」
「ああ、姉上!行かねばならぬ理由を教えてください。僕は何故、この部屋から光の下へ参らねばならないのですか」
「あなたが、この家の嫡子であるから」
「理由は僕を縛ります。僕は、違う、僕が行かねば為らぬ理由など」


 誰もが理由を必要とする。何をするにも、何を想うにも、ビコォズが要求された。僕に理由はない。僕はただ此処に在る。それが総てであり、またそうでなければならない。優一郎はずっと昔からそう信じ生きてきた。それが彼の信条であり、存在意義であった。よく言えば中立にして潔癖。悪く言えば、思想を持たない傀儡である。絅子は笑う。


「理由が必要とされる時もあるのですよ。人はそれを無意味に求めるのではなく、なにか…そう、自分の心を守るために、行動や感情に名をつけるのです。正義であったり、抗いようの無い状況で在ったり。あなたにそれは必要ないのかしらん」


 暗い部屋に、厚いカァテンの隙間から漏れる光がぼんやりと埃をきらめかせている。姉の表情はそれきり見えなくなった。彼女は昼間というのに閉め切っていたカァテンを開き、僕は目を眩ませた。瞼に白が焼き付く。初夏の光のなんと凄まじいことか。


「どうして悩む必要があるのですか」
「僕はそうあってはならないからです。」
「無駄なことを。わたくしたちは理由のために産まれたのですのに」


 視界が色を取り戻す。あざやかな赤は姉のドレス。暴力の朱だ。美しい絅子は妖しい口唇で唱える。僕らは道具だ。なにか過ちを犯したとしたら、この世に生を受けたことが罪のはじまりであり罰であると、彼女は小さく囁いた。


「優一郎わたしのかわいい同胞」


 姉は知っているのだろうか。いや、彼女が知らぬことなどない。優一郎の血の卑しさも、その臆病で仕様のない魂も絅子は総て承知の上で彼を煽っているのだ。恐ろしい姉。美しく棘のない言葉を並べたてる。彼女は弟の卑賤たるを疎んでいる。そうではないといいながら、誰よりも血筋に拘っている僕の脆弱な精神を、絅子はとても冷ややかな目で見ていたように思う。


 父の爵位継承の夜、優一郎はその跡目に任命された。それは彼が父の息子であり祖父の血を継ぐ男子であったからだ。もし自分が女として生まれていたら、絅子のように父に見向きもされずにいたのだろうことを思うと、背に汗が垂れた。なんとおこがましいことであろう。


 わたくしの弟は、と絅子は祈った。決して自ら与えようとはしなかったが、優一郎が望みさえすれば絅子はその全てを与えてきた。祖母君のくださったテディベアァも、父親の愛情も、絅子は弟の願いに差し出した。然し、彼女はなにかに執着するということがなかった。弟の、欲しいという感情を羨ましくさえ思っていたのだ。おそらく今、彼が望んでいる答も、優一郎が望みさえすれば、与えるつもりでいた。


 絅子のその性質は実に冷めており、どうしたことか彼女には世界が見えていた。大人が如何に隠そうとしても、彼女はすぐに隠し場所に気付き、花園に辿り着いてしまうのだった。優一郎の祕密もまたその中の一つで在った。


 絅子は彼を慰めようとも、卑下しようともしない。この世界で唯一、彼女だけが優一郎を優一郎として受け入れてくれる存在であった。然し彼はその姉のわかりにくい優しさをも疎ましくおもった。思春期の少年にとって、それはあまりにも当たり前なささやかな反抗であったのかもしれない。聡明な双子の姉と比べ、至極普通な自信に対する気負いであったのだろうか。美しい姉に焦がれる一方、その精巧な仮面を壊したくて堪らなくなるのだ。


「姉さんは、知っているのでしょう。」
「なにをですの、」


 優一郎の体躯は既に姉のそれを上回っていた。


 彼女のか細い腕を掴み、ミレェの複製が飾られる壁へその華奢な体を押さえつけた。絅子は何も云わない。驚くことも、恐れることもなかった。もし、彼女が一声でも上げれば、彼は姉にただひとつの乱暴をはたらく間もなく、駆けつける使用人たちに捕らえられてしまっただろう。絅子の穏やかな瞳は、その心を見せる事無くじっと弟を見つめていた。薄い唇が上半月に歪められる。
「お前になにかすることができて」そう謂われた氣がして、微かな苛立ちを感じたが、彼女の表情はちっとも変化することは無かった。


 僕は彼女の慌てる表情が見たかったのだ。優一郎は絅子から視線を逸らし、僅かに俯く。赤いドレスに包まれた華奢な体の線が見える。姉と彼は同位体である。いままでそう信じ、疑ったこともなかったが、神話が崩壊した今、背徳への枷が緩んだ。美しい姉。親友の麗しい婚約者。このまま彼女を無理矢理にでも犯してしまえば、絅子は自分のものになるのだろうかと考えたが、彼の卑小な精神は、偽りであっても近親相姦の罪に耐えられることがないことは優一郎自身が良く理解していた。


「なんでも。」
「さぁ。どうなのでしょうね。」


 手を放すと、姉の手首はその白い肌に赤く筋が通っていた。少年の指の痕跡である。柔く脆い肌だ。一面に降り積もった白銀を踏み汚すときの心地に似ていた。


「あなたは、わたくしになんと云って欲しいのですか。」
「よく、判りかねます。僕は、祖父君をお慕いしていましたから…、少し動転していたのです。赦してください。」


 彼は逃げるように姉に背を向けた。彼女の視線を背中に痛いほど感じながらも、振りかえることができなかった。絅子は、笑っているのだろうか。変わらぬ、よく出来た人形のような貌で。
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23 :04/ 自作小説小説・文学OLD
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